2017年9月15日(はれ)

ツイッターを控えてみた感想

 

・タイムラインは見たい

次々と新鮮な情報が流れてくるタイムラインは、たとえ内容がカッスカスでも見ていられるものだ。というか、たぶん内容はどうでもいい。必要なのは多様性、人の意見、あとは量だけだと思う。最近でもログイン画面に表示される知らない有名人のツイートとかを読んでしまう。得るものは無い。

 

 

・書くことは案外すんなりやめられた

何を書いても、どうせ得られるものは「いいね」だけだ。そう思うと、なんかすんなりやめられた。それよりも「これツイッターに書こうかな」とか考えてる思考コストが無駄。このコストは、たぶん意外と馬鹿にならない。あと、自分の生活をだらだら露出するのはありがたみ(ありがたみ?)が少ない。

何より、絵を描いているとSNSウケのことを考えてしまう…ということが無くなった。そりゃ絵を描く以上はウケてほしいが、あらゆる要素が「技術」か「フレーバー」程度にしか感じられなくなる。これは体験としても良くない。

 

・それから

ツイッターをやめると孤独がやばくなるだろうと予測していたが、むしろ少し気楽になった。自分が孤独な土地に一人でいるせいで、他者と自分を比較する癖がついていたのだろう。ツイッターは自慢か弱音ばっかだから仕方がない。

 

・とはいえ

人間と顔を会わせない時間のほうが圧倒的に多い自分にとって、ネット含め誰とも関わらないのはそれこそ不健康だろう。ツイッターも見ず、人にも会わずに何をしているかというと、木目を見たり、蟻を数えたりしているだけだ。

作業中に友人らと通話をしたりもしていたのだけど、それも最近やめるようになった。身近にない人と目的もなく電話ばかりするのは、きっと無意義に感じられるだろうし、何より「こいつは孤独の処理に自分を利用している」と感じられたら嫌だ。

楽しい通話には、あるていど「育った」友人が必要なのだけど、そのために友人を消費していくような行為は継続性に欠けまくるし、それよりは何年経っても会って遊んだりしたい。

 

やはり、安定的・継続的に社交による愉悦を得るには、市街地に住む必要があるのだろう。そのためには稼がなければいけないのだけど、そんな気は全く湧いてこない。

そういう経済状況……もっと言えばそういう生き方の自分にとって、山は向いているのだと思う。最低限の所得を確保しつつ山の一軒家に引きこもるメリットは、働きながら市街地に住むメリットよりも(自分にとって)遥かに大きいはずだ。少なくとも金銭的な不安は減ったし、部屋で熱唱しても誰にも聞こえない。

最低限の制作環境、公的でないセーフティネット、そのように考えている。

 

・これから

といったように御託を並べてても、孤独は突然やってくる。田畑の中から、林道の向こうから、俺の様子をいつも窺っている。

だからもし機会があれば、また京都あたりに住めたらいいと思う。そんな機会あるか?

 

 

 

 

ないです。ないから今冬はドラム缶風呂でも作ろうと思う